華やかなファッション業界において、これほど「個」と「家族」が強く結びついた存在は他にない。コシノヒロコ、コシノジュンコ、コシノミチコ――この3人の名を聞けば、日本のファッション界を牽引してきた三姉妹として思い浮かべる人も多いだろう。
彼女たちは単なるデザイナーではない。それぞれが異なるスタイルで世界に挑み、成功を収め、日本のモード史にその名を刻んだレジェンドである。そして何より彼女たちの生き方は、戦後日本の女性たちに「自由に、強く、美しく」生きることの可能性を示してきた。今回は、そんな“コシノ三姉妹”の足跡を辿りながら、その魅力と影響力に迫ってみたい。
三姉妹の出発点は、大阪・岸和田の小さな洋裁店だった。母・小篠綾子(こしの あやこ)は戦後まもなく「洋裁店アヤコ」を開業。地元の女性たちに洋装を仕立てる中、娘たちにも自然と針と布に囲まれた環境が当たり前の日常になっていく。
この母こそ、三姉妹の原点であり最大の支えでもあり、時に最も手強いライバルでもあった。後に綾子は、NHK連続テレビ小説『カーネーション』のモデルにもなったことで知られるようになるが、その原作となるリアルな人生を歩んできたのだ。
母の背中を見て育った三姉妹は、それぞれ異なる感性とアプローチでファッションの世界へと進んでいく。
長女・ヒロコは、最も早くデザイナーとして独立し、1964年に東京・青山に「ヒロコ・コシノ」ブランドを立ち上げる。日本人女性の身体に合った服を追求し、東洋的な美意識とミニマリズムを融合させた作風で高い評価を得た。
また、1980年代にはパリ・コレクションにも参加し、ジャポニズムの美を西洋に提示。美術館での展覧会や着物、和装小物へのアプローチも含め、彼女の仕事は「服」を超えて「文化」の領域に踏み込んでいる。
ヒロコの作品には、どこか“禅”のような精神性が漂う。それはきっと、姉妹の中でも最も静かに、しかし芯の強さを貫いてきた彼女自身の姿と重なる部分なのだろう。
一方、次女のジュンコはまさに「破天荒」。1960年代に東京・原宿で活動を始め、1978年には日本人女性デザイナーとして初めてパリ・コレクションに正式参加。モードの本場で堂々と自己表現を貫いたその姿は、多くの後進に勇気を与えた。
その後も北京、ニューヨーク、ヨーロッパ各地などでショーを展開し、世界中を舞台に活躍する。彼女のデザインは大胆で、時に挑発的。軍服をモチーフにしたコレクションなど、社会的なテーマをファッションに落とし込むセンスは圧倒的だ。
また、ジュンコはファッション以外でも積極的に活動し、舞台衣装やユニフォームデザイン、さらには平和活動や文化交流にも関わるなど、その生き方自体が“アート”と呼べる存在である。
三女・ミチコは、姉たちとは違う道を選んだ。1970年代に渡英し、1980年にはロンドンで「ミチコ・ロンドン・コシノ」を創設。日本では珍しかったストリートファッションやスポーツウェアの概念をいち早く取り入れ、欧州を中心に熱狂的な支持を得た。
ミチコのブランドは、イギリスのパンク・カルチャーや音楽とも深く結びついており、若者たちの間で「クールな日本のファッション」として認知されるきっかけとなった。
彼女の魅力は、“やりたいことはとにかくやってみる”という姿勢にある。異文化の中で生き抜くバイタリティ、そして時代の変化に柔軟に対応する感性。それがミチコ・ロンドンというブランドを今も世界中で愛される存在にしている。
コシノ三姉妹は、同じ家から生まれながら、それぞれがまったく異なるフィールドで花を咲かせている。共通しているのは、芯の強さと、どんな逆境でも笑い飛ばすような関西人のエネルギーだ。
そして何より、彼女たちが築いてきたのは「家族でありながらライバルであり仲間でもある」という独特の関係性。テレビのバラエティ番組などで三姉妹が揃うと、遠慮のない掛け合いに思わず笑ってしまうが、その裏には確かな絆と尊敬がある。
年齢を重ねた今でも現役で活動を続け、講演やメディア出演、後進の育成にも積極的な三姉妹の姿は、多くの女性たちにとってロールモデルであり続けている。
コシノという名前は、今や単なる姓ではない。ファッション、アート、ライフスタイル、そして生き方の象徴となっている。
個性を武器に世界に飛び出した3人の女性。彼女たちの存在が示しているのは、「出る杭」は打たれるどころか、世界を変える力を持っているという事実だ。
岸和田の小さな洋裁店から始まった物語は、今も続いている。コシノ三姉妹は、これからも新しい物語を紡ぎ続けるに違いない。