リバティアイランドの種子骨靱帯断裂と安楽死──競走馬にとっての「救い」とは

競走馬リバティアイランドが発症したと報じられた「種子骨靱帯断裂」。ファンに衝撃を与えたこのニュースは、競馬界における馬の「命」と「安楽死」の問題を、改めて私たちに突きつけました。

リバティアイランドは、牝馬三冠を含む輝かしい実績を持つ名馬でした。その彼女が、屈腱炎などよりさらに深刻な、種子骨靱帯断裂という重傷を負ったとき、関係者が直面したのは極めて重い選択でした。それは、延命治療か、安楽死か。

種子骨靱帯とは、脚部の骨と骨とをつなぎ、速い走行を支える非常に重要な靱帯です。これが断裂すると、馬は自力で脚を支えることができず、極度の痛みと不安定さに苦しみます。人間のように長期の安静で回復を待つことは、馬にとって現実的ではありません。馬は横たわったままでは身体を維持できず、また片足をかばっていると他の脚への負担が増し、蹄葉炎(ひづめの内側で起こる致命的な炎症)を発症する危険も極めて高いのです。

種子骨靱帯断裂という診断が下った瞬間から、競走馬にとって「命」をめぐるカウントダウンが始まる──それが現実です。

馬の安楽死は、日本ではしばしば残酷なものと捉えられることがあります。しかし、獣医学的な観点から見れば、激しい痛みと苦しみの中で生かし続けることのほうが、よほど酷な行為になり得ます。特にリバティアイランドほどの高名な馬であれば、繁殖への道を期待する声も当然あったでしょう。それでも、彼女自身の苦痛と尊厳を考慮し、延命ではなく「安楽死」を選ぶ決断をすること──それは馬にとって最後の、最も大切な敬意の表し方だったかもしれません。

安楽死という選択は、「命を絶つ」という負の側面だけが語られがちです。しかし、本来の意味は「苦しみからの救済」です。医療の発展によって、馬に対する痛みの管理や外科的治療も大きく進歩してきました。それでも、回復の見込みが絶望的である場合には、苦痛を長引かせるよりも、人間の手で静かに眠らせることが、最善の選択肢とされています。

リバティアイランドのケースに限らず、現代の競馬界では、馬たちの福祉に対する意識が確実に高まっています。過去には、「走れなくなったら使い捨て」というような扱いが一部で存在していたのも事実ですが、近年では、引退後に乗馬やセラピー馬として新たな道を歩む馬も増えています。また、重傷を負った馬に対しても、できる限りの治療を施し、可能ならば余生を穏やかに送らせようとする取り組みが一般的になりつつあります。

しかし、その中でも、「この命は、痛みに耐え続けるに値するのか」という問いに直面する瞬間が、どうしても訪れてしまいます。特にリバティアイランドのような名馬であれば、できる限り生かしたいという周囲の思いは強かったはずです。しかし、それ以上に、彼女自身がどれほどの痛みに耐え、どれほど不安な時間を過ごしていたかを思えば、安楽死という決断は、重く、そして深い愛情に裏打ちされたものだったと考えたいのです。

ファンにとっても、安楽死というニュースは耐えがたいものです。せめてもの救いは、リバティアイランドが、最大限の尊厳をもって見送られたということ。最期の時まで、彼女は「リバティアイランド」という名にふさわしい、気高い存在であり続けました。

私たちは、この悲しい出来事をただの一報として受け止めるのではなく、「命の重み」「痛みへの想像力」「尊厳ある最期とは何か」という問いを考えるきっかけにしなければならないでしょう。競走馬たちは、私たちに夢や感動を与えてくれる存在です。その一方で、彼らもまた「生きている」存在であり、痛みや苦しみに対して、人間の責任を伴った選択をしなければなりません。

リバティアイランド。彼女の栄光と、そしてその最後の選択が、競馬に関わるすべての人々に、静かに、しかし深く問いかけ続けています。